小説や評論を書きつつ短歌も作っている私の読書日記。毎日出会うさまざまな本への思いを中心に、日々の出来事やその感想についても綴ります。おつきあいいただければうれしいです。

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自作短歌その③

「どちらまで?」「南極まで」と呟けば嬉々として発車するドライバー

現在所属している短歌結社、塔短歌会に入会後、初めてその誌面に掲載していただいた歌です。当時の選者の山下洋さんが「いったいどんなドラマなのだろう」と苦笑しながら(?)選歌してくださいました。タクシードライバーの問いかけに「南極まで」と答えるところで一箇所、その答えにドライバーが「嬉々として発車する」ところでさらにもう一箇所、「なんだそれ?」とツッコミを入れていただくことを想定して詠みました。ふざけた歌ですが、自分では結構気に入っている作品の一つです。
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渡辺松男「きなげつの魚」

愛読する歌人は多いですが、その中でも五指に入るお気に入りの歌人、渡辺松男さんの歌集です。ひらがなを多用して自然や自分自身をうたう幻想的な歌風が魅力的です。特によかった歌を三首、引用します。

あさやけとゆふやけ孤悲の両翼をたたみて terra に添ひ寝をせむや
 朝焼けと夕焼けに、大地(地球)の両端で添い寝をするようにと促した風景。想像してみると、翼のように大地の両端を彩る太陽の赤さが美しい。「孤悲」は辞書には見つからなかったが、朝焼けと夕焼けを孤独で悲しい存在と見たものだろうか。大地の豊かさや豊饒がその悲しみを癒すのかも知れない。

いくど日は弧をゑがききやわうごんのその弧のなかに一本の松
 太陽は黄金の弧を描いて地球をめぐっている。その弧の中に松の木が一本立っている。松は「松男」の松だろう。世界の弧のなかにいる自分。太陽はその孤独な木を祝福するように幾度でも繰り返しめぐる。枝を黄金の光で染めながら。

蟬が松おほひつくしてはげしかるゆふまぐれどき首の重たき
 これも松は「松男」の松だろう。松の木を覆い尽くすほどの何十匹もの蝉が鳴いている夕暮れの風景。あまりに蝉の数が多いので、松の木=作者は、首が重たいと感じる。鬱陶しさを感じるほど夏の気配が濃厚に感じられる一首だ。蝉たちの烈しい鳴き声が聞こえて来そうである。

自作短歌 その②

垂乳根の母さん牛のメグミルク温めて飲む風邪気味の午後

これも初期の一首です。「垂乳根の」は「母」にかかる枕詞。「メグミルク」の「メグミ」と「恵み」(乳牛からの恵みとしての牛乳)を掛詞にしてみました。私にしては珍しくレトリカルな試みでした。風邪をひいた日の午後の、少し微熱があるときのボーッとした感じを出したいなと思って作ってみました。

ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」

すばらしい小説で、読み終えて何日もたった今でも感動がさめやらぬ思いです。特に主人公アリョーシャが敬愛する修道士、ゾシマ長老の語るキリスト教に関する言葉が心に残りました。この小説はあまりに秀逸過ぎてうまく「まとめ」が出来ませんので、それらの言葉からいくつか引用します。以下はすべてゾシマ長老の言葉です。

 馬を見てごらん、人間のわきに寄り添っているあの大きな動物を。でなければ、考え深げに首をたれて、人間に食を与え、人間のために働いてくれる牛を見てごらん。牛や馬の顔を見てごらん。なんという柔和な表情だろう。自分たちをしばしば無慈悲に鞭打つ人間に対して、なんてなついていることだろう。あの顔にあらわれているおとなしさや信頼や美しさはどうだね。あれたちには何の罪もないのだ、と知るだけで心を打たれるではないか。なぜなら、すべてみな完全なのだし、人間以外のあらゆるものが罪汚れを知らぬからだよ。だから、キリストは人間よりも先に、あれたちといっしょにおられたのだ。

 わが友よ、神に楽しさを乞うがよい。幼な子のように、空の小鳥のように、心を明るく持つことだ。そうすれば、仕事にはげむ心を他人の罪が乱すこともあるまい。他人の罪が仕事を邪魔し、その完成を妨げるなどと案ずることはない。「罪の力は強い、不信心は強力だ、猥雑な環境の力は恐ろしい。それなのにわれわれは一人ぼっちで無力なので、猥雑な環境がわれわれの邪魔をし、善行をまっとうさせてくれない」などと言ってはならない。子らよ、こんな憂鬱は避けるがよい! この場合、救いは一つである。自己を抑えて、人々のいっさいの罪の責任者と見なすことだ。友よ、実際もそのとおりなのであり、誠実にすべての人すべてのものに対する責任者と自己を見なすやいなや、とたんに本当にそのとおりであり、自分がすべての人すべてのものに対して罪ある身であることに気づくであろう。ところが、自己の怠惰と無力を他人に転嫁すれば、結局はサタンの傲慢さに加担して、神に不平を言うことになるのだ。

 神は他の世界から種子をとって、この地上に播き、自分の園を作られた。だからこそ、生じうるものはすべて生じたのである。だが、その育てられたものは、もっぱら神秘的な他の世界と接触しているという感情によって生き、溌剌としているのであって、もしその感情が弱まったり消えたりすれば、自己の内部に育てられたものも死んでしまうのだ。そうなれば、人は人生に無関心になり、それを憎むようにさえなるのである。わたしはそう考える。

内田樹「街場の戦争論」

また内田樹さんの本です。この本もたいへん面白い。たくさんの人に読んでもらいたいので、以下、感心した箇所を引用します。

国家は株式会社のように組織されるべきであるというのが自民党安倍政権の考えです。……彼ら[改憲派]は立憲政治と民主主義が嫌いなのですが、別に確たる政治イデオロギーがあって嫌いなのではなく、その効率の悪さに耐えられないのです。……
選択肢は「民主制か独裁制か」ではないのです。「民主制か金か」なんです。そして、日本人の相当数はこの問いに対して「金」と答えようとしている。……
安倍政権は……「経済成長に特化した国づくり」をめざす現代日本人の欲望を巧みに掬い上げて高い支持率を誇っています。でも、そこには逆に大きなピットフォールもあると思います。それは「成長に特化した会社経営」はありうるけれど「成長に特化した国家統治」というものはありえないということです。この自明の真理にこの人々はどうやら気づいていない。

以下は私のまとめ。株式会社はどう考えても民主的な組織ではないですよね。その経営方針を決めるのは、そこで働いている人たち(社員)ではなく、市場(マーケット)なのだから。そして、今や日本人の大多数は株式会社で働いているから、それ以外の団体というものが想像しにくい。国家と株式会社とは成り立ちが違い、従って会社経営と同じやり方で国を統治しても仕方がないです。「『日本株式会社』が最大の利益をあげること」を国の最終目標にしてはならない。

「企業がその収益を最大化するために自分自身の安寧や健康を犠牲に差し出しても『かまわない』と考えている人たちがこれほどの数いることに僕は驚愕します」と内田さんは言います。お金さえ儲かるなら民主主義も立憲主義も手放して構わないと考える人は、たぶん少数派でしょう。でも、今、安倍政権を支持する人は否応なく「お金」の選択肢を選び取っていることになります。そのことに気づいてほしい。

「アベノミクス」はたぶん、今から十年とか二十年くらいの時間が過ぎたあとでは、笑い話になっているでしょう(笑)。今、第一線で働いている世代は、「そんなコトバもあったなあ」と苦笑しながら思い出すのでは。
プロフィール

Serenie

Author:Serenie
セリーニーと読みます。東京に住む女性です。
小説や評論を書いています。短歌も作ります。
翻訳の経験もあり、訳書が一冊あります。
趣味は読書のほか、音楽・演劇・美術鑑賞など。

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